
『大神山(おおがみやま)』とは神社が鎮座する「大山(だいせん)」の古い呼び名です。
大山が文献に登場する最初の書物は、八世紀(奈良時代)前半に編纂された「出雲国風土記」で、意宇部国引きの条七に「固堅立加志者有伯耆國大神岳是也(國に固堅め立てし加志は、伯耆国なる大神岳是なり)」と国を引き寄せる綱(鳥取県の弓ヶ浜半島)をつなぎ止める杭として、伯耆国の「大神岳(火神岳)」として出てきます。
『続日本後記』承和4年(837)2月の条に「伯耆国無位会見郡大山神授従五位下」、『日本文徳天皇實録』斉衡3年(856)8月の条に「伯耆国大山神加正五位下」、同貞観9年(866)4月の条に「大山神正五位上」とあり、又『延喜式』神名帳(927)には「伯耆国会見郡大神山神社」と記されています。

主祭神の大己貴命は大山を根拠地として国土経営の計画をお立てになりました。「神祗志料」左比売山神社の条には「云々、昔大己貴命、少名彦名命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御坐、出雲國由来郷に来坐して云々」と書かれており、大山の山頂に立って雲の上から草昧の国土を見下ろし国見をされて国造りを相談なされたと伝えています。
ちなみに今のように大山と呼ばれるようになったのは平安期以降と思われます。
中国地方の最高峰であり、独立した優美な山容を持つ大山は、神の宿る山として古くから人々の信仰を集めてきました。
ふもとに暮す人々はもとより、海を渡ってきた人々からもその神々しさは格別なものが在ったに違いありません。

大山中腹の礼拝施設は高所のため冬期積雪多く、奉仕に不便であったので、西8㎞下方の丸山の地に冬期の社殿を造り、夏期祭事は旧の大山にて斎行しました。現在もこの丸山の冬宮跡を大神谷といい、遺跡が現存しています。
神仏習合時代は神職社僧合同奉仕となり、大山夏宮に大已貴神の本地仏として地蔵菩薩を祀り、大山権現或は大智明権現と呼称、近くに寺院仏閣を建立、平安・鎌倉期には智明権現社を中心に三院180坊僧兵3,000と称する大勢力を有しました。

平安末期丸山の冬宮は勢力大なるに従い狭く不便となり、川下の福万原に遷座、本殿方5間、廻廊7間、拝殿13間、土囲があり、数丁北方に随神門を有し、社領1,000石と伝え現在もその遺跡があります。
この頃大山夏宮に於ては、三院互いに争い僧兵度々合戦を重ね、室町時代に両社共に兵火により焼失した。この時代まで大山は神体山であり、夏宮に本殿は存在せず、祭儀施設のみでありました。現在も御祭神四柱に対し五神座となっているのはその名残りかと思われます。文禄14年(1605)に大山夏宮(智明権現社)を再建、これより本殿・幣殿・拝殿を有する現在の社殿様式となりました。
寛政8年(1796)に焼失したのを、文化2年(1805)に再建(現社殿)、内部は神仏習合様式で日本最大の権現造であります。

大山中腹の礼拝施設は高所のため冬期積雪多く、奉仕に不便であったので、西8㎞下方の丸山の地に冬期の社殿を造り、夏期祭事は旧の大山にて斎行しました。現在もこの丸山の冬宮跡を大神谷といい、遺跡が現存しています。
代々の領主の尊崇篤く、神領寄進、社殿造営等を行っています。吉川広家は大本坊の地に壮麗な社殿を造営して社領を寄進し、吉川氏岩国へ移封後も江戸時代には年々銀幣を奉納した。江戸初期、中村氏が伯耆領主となるや、家老横田内膳が神領を押収した為、豪円僧正が家康に乞い3,000石の大山領を許されました。
その威勢を以て冬宮の社僧をも夏宮に集め(夏宮祭儀はその大山領下の神職に奉仕を命じ)、冬宮は神職のみの奉仕とする神官僧侶分離を行いました。そのため夏宮は寺院の様相を呈し、二宮大明神と称せられた冬宮は次第に衰微しましたが、中間庄の豪農郡八兵衛が発議して、承応2年(1653)、尾高の現在地に奉遷して諸社殿を建立、江戸中期には再び西伯耆の名大社として崇敬されました。
明和5年の『神社改帳』には「二宮大明神七尺五寸間二間四方(注一丈五尺四方)末社門老父門老母朝宮権現新八幡宮」等の記述があります。
文化5年(1808)、用材は藩の用林より伐出し、人夫は汗入郡より徴して造営したのが現在の本殿です。天保6年(1835)に本殿を修復し、幣拝殿を新築しました。

神仏習合の時代は長く、江戸時代まで続きましたが、明治時代になると政府により神仏分離令が出され、明治4年、冬宮は「大神山神社」と改称し、国幣小社に列せられました。明治8年、夏宮(智明権現社)は「大神山神社奥宮」と改称し、仏教様式を廃した神社となり、本社と奥宮を合わせて一神社となりました。このとき地蔵菩薩は大日堂に移され、現在の大山寺になっています。
尾高の本社は昭和61年の遷宮を期に社務所、手水舎等を新築。千数百株の紫陽花と共に花の社として有名であります。
大山の奥宮は平成7年に社殿内外を修復、幣殿内部に極彩色の装飾と日本最大とされる白檀塗(びゃくだんぬり)が再現されました。