御祭~ 大穴牟遅神(命)〜本社、
    大己貴神(命)  〜奥宮
         ※ 「おおなむちのかみ」〜大国主命の別名です

            相殿  大山津見神  須佐之男神  少名毘古那神

末社  (本社) 朝宮社 龍神社    
               (奥宮) 下山神社 横手神社 弁財天社



大神山とは、神社が鎮座する「大山(だいせん)」の古い呼び名です。(現在の)大山が文献に登場する最初の書物は、八世紀(奈良時代)前半に編纂された「出雲国風土記」で、国引きの条の中に「國に固堅め立てし加志は、伯耆国なる大神岳是なり」と国を引き寄せる綱(鳥取県の弓ヶ浜半島)をつなぎ止める杭として、伯耆国の「大神岳(火神岳)」として出てきます。ちなみに今のように大山と呼ばれるようになったのは平安期以降と思われます。
中国地方の最高峰であり、独立した優美な山容を持つ大山は、神の宿る山として古くから人々の信仰を集めてきました。ふもとに暮す人々はもとより、海を渡ってきた人々からもその神々しさは格別なものが在ったに違いありません。
主祭~の大己貴命は大山を根拠地として国土経営の計画をお立てになりました。「神祗志料」左比売山神社の条には「云々、昔大己貴命、少名彦名命、須勢理姫命、伯耆国大神山に御坐、出雲國由来郷に来坐して云々」と書かれており、大山の山頂に立って雲の上から草昧の国土を見下ろし国見をされて国造りを相談なされたと伝えています。



本社より見た大山
大山にいつ頃から神社があったのかはわかりませんが、古来信仰を集めていた大山において、頂上を拝める中腹に遙拝所(磐座・磐境等)を設けたのが始まりと思われます。こうした山そのものをご神体として崇めることは日本各地によくあったことで、多くは本殿を持ちませんでした。なぜならば古来の日本の信仰では神様が宿られるのは自然そのものであり、特別にお入りいただく建物は必要なかったからです。伝承によれば大神山でも建物が建ち始めたのは崇~天皇(西暦300年頃)あるいは応神天皇の御代(西暦380〜390年頃)とも言い伝えられており、本格的な社殿が建てられるようになったのは平安期頃からです。なおその後も本殿は無く、本殿が建てられたのは江戸時代(1701年)になってからです。 奥宮の社殿は寛政八年(1796)に火災に遭って消失し、現在の社殿は文化二年(1805)に再建された物です。この社殿は本殿・幣殿・拝殿が一体化し、それに長廊がT字型に付くという独特の形をしており、内部は権現造で柱・長押には金箔に似せた白檀塗りという技法で彩られ、側面には天女の壁画、格天井には花鳥風月が描かれています。 (奥宮のページ参照・国指定重要文化財)
昔はこの拝殿には神官僧侶等特別な人以外には入れず、一般の人々は長廊までで参拝していました。



奥宮
仏教が日本中に広まってくると、その影響下に神職と僧侶が同じく神様に奉仕する「神仏習合(混淆)」の時代となり、大神山神社でも僧侶は御祭~である大己貴命に地蔵菩薩を祀って「大智明権現」の名を称して神仏を共に崇めることとなり、近くに多くの寺院を建て、平安鎌倉期には三院一八〇坊僧兵3千とまで興隆するようになりました。
しかしこの奥宮の地は標高千メートル近い高地であり、冬には積雪が数メートルにも達する所でありましたので、昔に於いては冬季の奉仕は非常に困難な場所でありました。そこで冬でもお祀りする事が出来るように、川沿いに数q下がった大神谷(現在の伯耆町丸山地内)の地に社を建て、これを冬宮と称し、本来の大山中腹の社は夏宮としました。その後ここでも冬季の神事は厳しく、手狭にもなったので、さらに下がった福万原(米子市福万)に移転しました。その後この福万原の社は戦国時代になると戦禍や社会の変化で衰退し、天正年間(安土桃山時代、十六世紀後半)に領主吉川広家により大本坊(米子市尾高地内)の地に社殿を築きました。しかしこの社は八千坪という広大な社地を持っていましたので、吉川氏が岩国に移封された後は維持が困難になり荒廃していきました。 そこで氏子であった中間庄の豪農郡八兵衛が神夢により、場所を尾高の現在地に移して承応二年(1653年)遷座をして冬宮としたのが現在の大神山神社本社です。

本社
神仏習合の時代は長く、江戸時代まで続きましたが、明治時代になると政府により神仏分離令が出され、明治四年に尾高の冬宮は国幣小社に列せられ「大神山神社本社」となりました。ついで明治八年に大山の夏宮(大智明権現社)より地蔵菩薩を除き「大神山神社奥宮」として純然たる神社となりました。このとき地蔵菩薩は大日堂に移され、現在の大山寺になっています。
このように大山は昔から自然信仰・山岳信仰の山として、また神々・祖霊のお集まりになる神山として崇められてきました。
現在でもこの地方に災害が少ないのは大山さんのおかげと言って大山に向かって手を合わせる人も多くいます。

下山神社   大山奥宮境内 国指定重要文化財   御祭~ 渡辺照政朝臣

元徳二年(1330)、備中郡司渡辺日向守の一子源五郎照政は月毎の大山参拝の帰途、いさかいに巻き込まれ命を落としました。人々はこれを哀れみ大山山麓の下山の地に塚を造り篤く葬りました。 その後、照政公の霊による託宣により観世菩薩像を彫りだして奥宮横に社を建て、下山大明神として祀りました。下山大明神は霊験あらたかな事で人々の信仰を集めましたが、慶長年間に鹿野城主亀井豊前守政矩(かめいまさのり・後石見津和野藩主)公は神託に感謝し荘厳な社殿を建立しました。
その後社殿は奥宮とともに火災に遭い消失しましたが、文化2年(1805)津和野藩主亀井隠岐守矩賢(のりかた)公の寄進により再建されたもので、中殿格天井には花鳥風月画、周囲には精緻な彫刻が彫られています。
奥宮大神輿

台座高約3.8m、神座径約1.8m、担ぎ棒長約5.6m、重量約1tの神仏習合様式の八角神輿で、内部には御神像が納められていて外部には金箔が貼られ、担ぎ棒は漆塗りです。
江戸時代中期に日野郡中の寄進により奉納されたもので、明治十八年(1885)までは御幸行列に出されていましたが、、そのあまりの重さに長い参道を担ぐ人を集める事が出来ず、長い間奥宮の長廊に保管されていました。平成十四年に鳥取県で開催された国民文化祭に合わせ、約二年をかけて修復を行い、平成十四年十月二十七日に百十七年ぶりに人々の肩に担がれる事が出来ました。現在は奥宮長廊に展示されています。


奥宮参道

大山寺山門前から奥宮に続く約700mの参道は、自然石を用いた参道としては日本屈指の長さを持ち、周囲のブナや杉の大木の間を進む道は幽玄な趣となります。
この参道は皇紀二千六百年(昭和十五年)記念事業として整備されたもので、それ以前の参道は南光河原から金門を通って神門に続いていて、神門は今でも昔の参道の方向を向いており、その正面には金門に向かう古い石段が残っています。
現在金門は堰堤が作られており通る事が出来ませんが、夏至の前後には金門の間に落ちる夕日を見る事が出来ます。



本社春祭(4月29日)

  本社春の例祭です。午前10時着祭。
  神幸式〜午後1時30分より尾高地内にある御崎神社に向けて神輿行列が行われます(雨天中止)。

奥宮春祭(5月24日)

 大山さんとも言われる奥宮の春の例祭です。
 午前10時着祭。
 福迎え神事
 正午より本殿横にて、福迎え餅の散餅が行われ、紅白の福餅を拾われた方は特別に拝殿にて招福・家内安全の御祈願を受けられます。



大山山開き祭(6月第1土曜〜日曜) ※土曜日が5月にかかる場合は次の週になります。

毎年6月の最初の土曜日・日曜日にかけて行われる、大山の夏山登山の安全を祈るお祭りです。
土曜日の夕刻より奥宮で前夜祭が行われ、祭典終了後、日暮れとともに神前で採火された火を移した数千本の松明行列が闇に包まれた参道を博労座に向けて進む様は圧巻です。
翌日曜日には大山山頂にて地元関係者や登山関係者・一般登山者が見守る中、山頂祭が行われ、夏山の安全を祈ります。
ただし悪天候で山頂に登るのが危険な場合は、夏山登山道阿弥陀堂横にての神事になります。
また博労座広場では、両日に渡ってコンサートやイベント、各種出店も行われ、登山をしなくとも楽しむ事が出来ます。
古式祭 (神水汲取神事・7月14日〜15日)

神水汲取神事(もひとりしんじ)とも呼ばれ、神仏混淆時代には弥山禅定としても行われた水信仰の一種で、毎年7月14日の深夜から15日の早朝(旧暦6月14・15日)にかけて、神官2人(古くは修験者共、また僧侶は23・24日)が先達や信者と共に大山の頂上近くにある石室に登って祈念し、その前にある梵字が池・地蔵池御神水を汲み、また御薬草を採って下り、神前に供えたものを信者に分け与えて人々の健康と平安を祈るお祭りです。またこのときに神官が履いたわらじの紐が安産に御利益(ごりやく)が有るという言い伝えがあります。
このようなお祭りは以前には各地にありましたが、現在では多くが廃れてしまい、今では貴重なお祭りです。

「もひ」とは水の古語で古事記(下つ巻、仁徳天皇の条)には水取司(もひとりのつかさ)、延喜式(巻方九)では主水司(もひとりのつかさ)などと記されています。

本社秋祭り
 10月9日 午前10時着祭
 祭典終了後各種祈祷

奥宮秋祭り
 10月24日 午前10時着祭
 祭典終了後各種祈祷